縄文時代の話 伏見医報令和5年消夏号  栗原 眞純

 86年間生きてきた中でも最も暑い夏を実感しているこの頃です。
 今から約1万6千年前(前1万4千年)、旧石器時代から新石器時代に移る頃、狩猟採集民族でありながら定住生活を始め、土器を発明した縄文人が登場しました。
 その後1万年以上続いた日本の新石器時代を縄文時代と言います。私たちはこの縄文時代について学生時代には殆ど何も教わらないで来ました。
 近年、その特異な存在が世界的に注目されてきた縄文時代・縄文文化について少し書いてみました。
 西暦を使い出してから、未だ僅か2023年しか経っていない今、1万年以上も続いた、ながいながい縄文時代を上手に説明できる自信はないのですが暫くのあいだお許し願います。
 旧石器時代の終りごろと言えば氷河期が終わってナウマン象が姿を消し、気温が現在より3度程高くなり海面が2・3m上昇し、海進(海面が上昇し海岸線が内陸に移動する現象)が進んで平野・干潟・浅瀬が広がり、生活するには絶好の温暖な気候が続く1万年となりました。
 温暖化によりクリ、シイ、ブナ、ナラ、クヌギなどの青々とした広葉常緑樹が茂り、弓矢、罠、槍、銛、網、釣竿/糸針などを使ってシカ、イノシシ、ノウサギ、タヌキ、キジ、カモ、マグロ、カツオ、マス、タイ、フグ、コイなどを捕まえました。アサリ、ハマグリ、牡蠣、クリ、クルミ、シイ、ワラビ、やまぶどう、きいちご、あけび、大豆、小豆、緑豆、ダイコン、ネギ、ニラ、ショウガ、ハス、など四季折々多種多様の豊かな食材が十分に得られ、余ったものは大型土器に入れて保存されました。当時の主食であったクリの実を採るために広い栗林造成の跡も見られます。驚いたことに牡蠣の養殖もなされ、果実酒も作られていました。狩りには犬がお供します。
 粘土を成形し、焼き固めて作った土器は人類の食生活に革命を起こした縄文時代の大発明です。この時代を土器時代と言っても良い程です。それまで石の上で焼いたり焙ったりするだけであった食材のレシピが土器を煮炊きに使うことで一挙に豊かなものになりました。ドングリやトチの実などアクが強くて食べられなかったものも土鍋を使い茹でてアク抜きをすると食べられました。
 縄文人は男も女も「おしゃれ」を楽しみました。衣服は、太さ1mm程の麻の繊維で作った織布、編布製の貫頭衣が主で木・石・牙・土製のアクセサリーで飾りました。骨製縫い針もありました。硬くて壊れやすく細工の難しいヒスイも使われました。ヒスイを切ったり、穴をあけたりすることは現代人にとっても至難の技です。
ヒスイ勾玉
 ヒスイは糸魚川周辺でしか採れず、丸木舟や葦舟を使うなどした交易により日本各地の縄文生活圏で使われました。磨製石器に使われた黒曜石も限られた産地から全国に流通していました。各集落には種々の特産品もあり、物々交換が栄えました。18世紀にJAPANと称され、マリー・アントワネットに愛された漆器ですが、縄文時代すでに漆塗りの土器が使われていたのも驚きの技術です。
 縄文時代の漆器
 2021年にユネスコの世界文化遺産に指定された青森県三内丸山遺跡の建物群では、高さ16m幅10mもある大型建築用に深さ2.5mの穴が6個、2列に4.2mの等間隔で地面に掘られ、そこに直径1m余のクリの巨木(樹齢250年)の柱6本が建物の安定を考慮して2度だけ内向きに傾けて埋めてあり、木の最下部先端は腐食を防ぐために焦がしてありました。1単位35cmという縄文尺が全国的に使われています。測量技術と共同作業は必須です。測量に必要な記号なども使われ、高度な建築技術が随所に見られます。この建物の用途は不明です。土地は住居、道路、墓地、祭祀場など使用目的に合わせて区画されていました。
大型掘立柱建物
 家族ごとに住む、径数m程度の竪穴式住居や物品の備蓄保存用に使われた大き目の高床式掘立柱建物、集会場として使われた幅32m高さ10mの大型竪穴住居など600棟程が広さ東京ドーム7・8倍位の集落を作っていました。
 新生児・乳児の死亡率は非常に高かったのですが、成人の平均寿命は男女とも46歳位でした。
集落全体の全景復元
 1万年以上も続いた縄文時代の遺跡(日本に9万カ所以上)からは戦の跡が見られません。国内外の縄文時代以外の遺跡からは必ずと言って良いほど槍・剣・盾など武具が出土しますが縄文遺跡からは全く見られないのです。また、他の遺跡では相当の割合で戦で亡くなった人骨が出土するのですが、縄文遺跡からの出土は非常に少ないそうです。戦の無い平和な時代が1万年も続いたということは特筆すべきことです。
中空土偶 国宝
 縄文時代は衣食住に恵まれていたと同時に精神生活も豊かなものでした。縄文土器が遊び心一杯のアートとなって開花した時代でもありました。岡本太郎さんに「なんだ、コレは!」と言わせ、今に残る1970年大阪万博の太陽の塔作成のヒントになったと言われる火炎型土器や土偶は正に日本文化の源流であり、国宝に指定されたもの、大英博物館で数年間ずつ何度も常設展示されていたものもあります。
火炎型土器 国宝
 さて、1万年も続いた暖かで快適な縄文時代も中期の終わり、前4千4百年から前3千年ごろにかけてを折り返し点とする寒冷化によって、衰退して行きました。最大28万人あった人口が8万人となり、目立った遺跡や貝塚の発見は見られなくなりました。縄文時代の終焉です。
 この後、弥生時代に入って大陸から稲作農耕が入ってくると、人口が増え始め土地や水を巡っての争いや戦いの時代が始まります。
遮光器土偶 国宝
 私たちが高校時代に教わってきた世界文明の始まりはエジプト、メソポタミア、インド、中国などの4大文明でした。いずれも前4千年〜前1千年頃です。歴史の古さにおいては縄文時代の方がはるかに古いです。
 元々4大文明という言葉は中国清朝末期(植民地化時代)に日本に亡命した人物、梁啓超が中華文明の卓越性を説く為に黄河文明を挙げて作成した言葉で、日本・中国以外では使われない言葉です。
 都市国家の形成や文字使用などが文明の始まりだとするなら、確かに縄文時代は文明と呼べないのかも知れません。
縄文のビーナス土偶 国宝
 都市形成こそ無かったものの、国内に9万カ所以上も見付かる縄文遺跡から見えて来たのは、世界で唯一特定の宗教を持たず自然と人間が一体となって自然を敬い環境を大切にし、都市や文字を作らず、争い戦う必要のない平和な1万年を支えた縄文時代でした。
 見方を少し変えるだけで世界最古の文明と呼んでも良いのかも知れません。
合掌土偶 国宝
 現代こそ「文明」社会だと考えがちの不遜な私たち、果たして今の「文明」が今後1万年はおろか、100年でも続くでしょうか、危ういものです。
縄文の女神土偶 国宝 
 縄文時代研究が盛んになったのはやっと21世紀になってからのことです。想像もつかないような新発見が次々に出て来るに違いありません。 -- 写真は全てスマートテレビの画面をスマートフォンで撮影したものです --

エピローグ
 縄文時代の遺跡の1つ、岐阜県の岩屋岩蔭遺跡に金山巨石群があります。巨石と巨石が重なり合う隙間から差し込む太陽光が4年に1度(4の倍数の西暦年)、ある一定の地点だけに到達する、しかし128年に1回は4の倍数年であっても到達しない仕組みになっています。

 前8千年の縄文人がどのようにして1個当たり数百トンもの巨石を切り出し正確な位置まで移動し組み上げたかなどは全く解明されていません。

 光と影が作り出す造形を観察することで縄文人は時刻や方角、夏至冬至春秋分などの暦を知って栗の木の栽培や木の実の収穫の時期を決めていたのかも知れません。ここは言わば縄文時代の天文台であったのでしょう。

 興味がおありの方はgoogleなどの検索窓に【YouTube金山巨石群から読む縄文人の知恵】と入れて表示される動画をご覧下さい。