海外旅行中に経験した心臓発作    京都医報   Feb.,1993

 この正月に得難い経験を致しました。少々長くなりますが誰にでも起こり得ることで,参考になることがあるかもしれないと思って書かせていただきました。

 オーストラリア・ケアンズで素晴らしい空と海と珊瑚礁を楽しんでの帰国前夜,祝杯をあげて床についての1月6日午前3時,義父の苦しい,来てくれとの別室からの電話に驚いて行ってみると,典型的な心臓発作で胸をかきむしるようにしてベッド上で悶え苦しんでいます。

 軽度の糖尿病以外に既往がなかったので薬もなくホテル医師も不在で,すぐに救急車を呼んでもらいました。

 後から考えると,ホテル医が不在だったことは多分幸運でした。専門以外の医師に来られてもたもたしていれば生きては帰れなかったところでした。

 なすすべもないまま6,7分も苦しんだでしょうか,やがて無意識となって動かなくなり,頚動脈の拍動も触れず呼吸も止まり瞳孔も散大しています。

 この時点で小生は正直なところもう駄目だと思いましたが,その気持ちを振り切って人工呼吸と心臓マッサージを始めました。

 約5分後に救急車2台に分乗し,スマートな制服に身をつつんだ女性を交えた4名の救急隊が駆け付けてくれました。

 すぐに酸素を与え.衣服を破り.心マッサージをしながら,ECGモニターをつなぎDCショックをかけてくれました。モニターはノイズの中に見え隠れするRR間隔,振幅ともに不揃いな心室細動の波形を呈していました。これらのことは救急隊員が部屋に入ってからわずか1,2分の間に手際よくなされました。

 この状態で救急車に収容し,ホテルから約5分のケアンズベースホスピタルの救急処置室に連れて行かれました。この救急車到着の速さ,処置の速さ,病院の近さが義父の命を救ってくれたに違いありません。急性心臓死が増えている今日,日本でも一刻も早く救急隊員が除細動機を扱えるようにすべきだと思います。

 救急処置室に入って40分後,その間にあらゆる手段をつくして蘇生を試みてくれたのでしょう,私達が呼ばれた時には,まだ意識はないものの自発呼吸が出て血圧も正常化,ECGも頻脈ではありますが洞調律に戻ったことを示していました。

 ほどなくCCUに移り,一番恐れていた脳の敢素不足による植物化もなく朝7時頃には意識も回復しました。その時点では四肢麻痺も見られず言葉も明瞭で「午後には皆と一緒に帰れるよ」などと言い出しました。胸痛を訴えていましたがこれは心マッサージの際に生じた肋骨々折のせいのようでした。右肺に吸引牲肺炎の陰が出ていました。

 本人の言葉はともかく,とても帰れそうな状態ではありません。私は珍療があるので残れません。家内が残ろうとしたのですが,パスポートが子供と一緒になっていて子供と家内とは別行動がとれないのです。小さい子供と一緒では病人の看病どころではありません。仕方なく家内の姉を付添いに残し後ろ髪を引かれる思いでその日の正午過ぎの飛行機で帰国しました。

 丁度病院のとなりがマトソンプラザという大きなホテルだったので義姉はそこに滞在することになりました。

 私達の旅行代理店,新日本トラベルの駐在員の山下さんが英語のできない姉を助けて,最初の内は付きっきりで,少し落ち着いてからは日に何度も病院に来てくれて医師や看護婦や病院とのやりとりを助けてくれました。たいへんありがたいことでした。、

 その山下さんが来られない時にはマトソンプラザの日本語が話せる親切な現地人がすすんで助けに来てくれたのだそうです。

 さて,先に帰国した家内と小生は,義姉や病院や現地及び日本の旅行代理店,JALなどとの間で何度となく電話とFAXのやりとりをしました。特に外国との通信で成力を発揮したのはFAXです。相手がいるかどうかの心配もなく,時差も考えなくてよく,不自由な英語でも読み書きはできるわけですから,しかも速くて安くてこんなに有難いものはありませんでした。

 1月8日付けの内科部長,Dr.HadfieldからのFAXでは強度の大動脈狭窄と僧帽弁閉鎖不全及び左室肥大があり,そのための心不全による心発作であろう,幸いひどい心筋梗塞は見られないようだ。肺炎の陰も消えた。不整脈を抑えるために,amiodarone(日本ではまだあまり使われていない薬)を使用している。7日午後からは自力歩行もでき,全身状態も安定しているのでこの分なら数日中に帰国可能だろうということで,それにしても殆どあの世に行った状態からわずか2日間でここまで回復するとは何という強鞍な身体なのだろうと驚くとともに人工呼吸と心マナサージの重要性を再認識しました。そして新薬amiodaroneの強力な抗不整脈効果にも感心しました。

 ところがやはり全てはうまく行かないもので12日になって同医師から,前日自力でシャワーを浴びてから無気力と右手の軽度運動麻痺,歩行不全が出てきた,脳CTで左内包と右小脳に梗塞が見られる,恐らく弁膜症とDCショックによる合併症であろう,手術などこれ以上の治療には飛行機で2時間のブリスベーンに行かなくては駄目だ,帰国は可能だがそれには除細動機と薬剤を携帯した医師の同行が必要だ,とFAXしてきました。

 とにかく帰って貰わねばどうしようもないので医師の付添いで帰らせることにしました。とりあえず3名分の航空座席は旅行会社が手配してくれましたがそれにJALの全くの好意で3名と機材のために8名分の座席と車椅子が用意され,乗務員が入れ替わり立ち替わり容態を心配しに来てくれたということです。

 ただし乗る前に「もしもこの患者のために引き返さねばならなくなった時にはJALが立て替えねばならない全乗客の運賃,宿泊費,燃料費その他の損害全額を支払う」という書類にサインさせられましたが,これはよく考えるとまことに恐ろしい約束でした。付惑いのArcher医師はずっとモニターを眺めながら2時間おきにヘパリンなどの注射をしてくれていました。

 「どうかまた発作を起こしてケアンズに逆戻りなどということになりませんように」と義姉がひたすら願っているうちに長い長い7時間が過ぎ,1月16日土曜日の夕刻やっと成田空港に到着しました。

 京都から成田のレンタカー会社に電話して病人輸送用に用意して貰ったワゴン車は緊急用の駐車スペースに置いてありました。患者をワゴン車に寝かせ点滴を始め,Archer医師と私との治療に関する打ち合わせが終わってArcher医師が当夜の宿泊ホテル行きのリムジンに乗り込むまで,JALの職員二人が付さ添って患者の移動,聞き取りにくいオージーイングリッシュの通訳,リムジンの切符購入などこまごまと世話をやいてくれました。

 そのまま夜のハイウェーを小生が運転してゆっくり走り,翌朝10時,前日森教授に無理にお願いして準備していただいていた滋賀医大第二外科のベッドへと運び込みました。

 義父は「やれやれ言葉の通じる日本に帰れた」とあの世からよりも外国から帰れたことを涙を流して喜んでいます。

 6日深夜発作時のことを尋ねてみると,苦しくなって私の部屋に電話してドアの鍵を開けておいたあとは何も記憶にないということです。ベッドの上で大声でわめき苦しんでいたこともおぼえていないのです。このことは,はた目には苦しそうに見えても実は死の直前は案外恐ろしくも苦しくもないのではないかというのが家内の観察です。

 今後はリハビリを続けつつ内科的検査をして手術適応などを調べていただき最適の治療をお願いすることになっております。

 発病以来戦争のような12日間にかかった費用は114万円程でしたが,お金では得られない外国での実地救急医療という勉強をさせていただきました。

 その上 その場その場で周囲の多くの方々に助けていただいたお蔭でようやく一応の危機を脱することがでさたことを思い,改めて感謝の念を新たにしているこの頃です。

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