奇術と科学         奇術研究   Dec.,1968

 小学校6年生の最後の学芸会で、私は手先きの器用さを買われ、小道具係を仰せつかった。刃渡り1メー トルもある肉切り庖丁・ハト時計・暖炉・キングやクインの王冠など、いろいろと有り合せの材料を使ってこしらえた。ところで、このキングの王冠を作っていた時のことである。当時の私にとっては大変不思議な現象に出くわした。あまりに不思議に感じたので、今でもはっきりと思い出すことができる。

 まずポール紙で王冠の本体を作っておき、別に同じ紙で作った円錐コーンの上に、木製ボールを置いた物を作り、全体に糊を塗ってからアルミ箔を貼りつけた。そして、これを先きに作っておいた王冠本体の上部中央に置いて貼りつけたところ、急に熱くなって来たのである。約1分間ぐらいであっただろうか。とにかく触っていられないほどの熱さになった。

 まだ寒い早春の夜のことである。これは不思議なこともあるものだと思って、せっかく貼りつけたアルミ箔をはがして、もう一度同じことをくり返してみたが、こんどは全然熱くも暖かくもならない。

 翌日、これを頭に載せて練習中に、火でも吹き出すのではないかと心配し、申しわけないことではあるが、半ば期待して見ていたが、幸いなんのこともなく、数日後無事に劇、「青い鳥」は終ってしまった。

 たぶん、何かの化学変化による反応熟のせいであったのだろうと思うが、原因を突止めておかなかったのを、 後々まで残念に思ったことである。  

 また、これは比較的最近のことであったと思うが、シルクの両端を持っていて、これに向ってプラスチックの腕輪を投げると、これがシルクにスッと通るという奇術を見せていただいた。これも現象が大変はっき りし、あまりにも鮮かな腕前だったので、今もなお、はっきりと記憶に残っている。これについては、実は自分なりの種明かしは持っているのだが、どうもスムーズにことが運ばない。そのうち、本誌に、ぜひどなたか、正しい手順を書いていただき たいものである。

 このように、奇術、科学を問わず不思議な現象というものは、人の心を捕えて放さぬ強烈な何物かを持っていると考えられる。

 しかし、奇術と科学とは一見相容れないものである。なぜなら、不可能なことを可能にして見せるのが奇術であり、反面、科学が行なう現象は、たとえ、それがどんなにありそ うもない現象であっても、それは可 能なことなのである。従って、奇術に科学を取り入れすぎると、それは不思議でもなんでもなくなってしま い、もはや奇術としての価値を失っ てしまう。

 例えば、透視術に小型トランシーバーを用いたり、浮揚術その他の遠隔操作にラジコンを用いたり、また種々のエレクトロニクスを用いることにより、奇現象を作り出すことは容易であるが、これは演じる方もあまりにドライでおもしろ味がなく、観せられる方も、やがてそのような仕掛けを知ってしまうと、全く不思議さを感じなくなる。このような科学の奇術への応用は、奇術を破滅に導くものだといえよう。

 逆に、科学に奇術を取り入れるこ とも、これまた、厳に慎まなければならない。例えば、ある研究者が何年もかかって、ヘモグロビンを合成 しようと寝食を忘れ、必死になっていたとする。しかし、あと一歩とい うところでどうしてもうまくいかな い。

 その涙ぐましい努力を見るに見かねた周囲の人たちの中に、もしも過度の同情心と奇術的発想力に富んだ人がいたとする。そして、気づ かれぬように、自分の血をほんの一滴、反応容器の中に入れておいたとする。結果は直ちに世界中の人々を驚かせることになるが、これがもしネタグレすれば、この研究者は科学者としての資格を抹殺されることになるし、幸いにもネタグレしなかった場合は、さらに恐ろしいことにな る。科学がまちがった方向に進み始めるからである。

 このような、奇術と科学との相反性にもかかわらず、真に奇術を愛する人たちは、つまり演者はもとよりのこと、奇術を観て、単ににその場限りの驚きだけに終らず、非常な興味を示し、その種を追求しようとする人たちは、どうしたわけか、いわゆる科学に強い人たちに多いのである。

 これは科学的思考力に乏しい人たちにとっては、奇術的現象、つまり「無」から「有」が生じても、「赤」が「黒」になっても、ニュートンの法則に逆らう現象を見ても、また2個の物体が同時に同一の空間を所有することがあっても、 これをあるがままに、何の抵抗もなく受入れてしまい、これらが本来不可能な現象であるのだという事実さえ、それほど強く認識し得ないからである。この人たちにとっては、これらの現象は「奇術師ならば可能なこと」なのであり、別段それほど不恩義なこ とではないのである。

 これに反し、「科学に強い人たち」にとっては、これはたとえ相手が奇術師であったとしても、やはり驚くべき現象であり、この上もなく好奇心をそそられて、この不可思議きわまりない現象に至った過程を、追求したくなる。

 科学的思考力に富んだ人であればあるはど、好奇心をそそられる対象は限りなく広がっていく。この人たちにとっては、花が咲くのも、太陽が輝くのも、万物すべてが奇現象なのである。生命現象、宇宙空間、素粒子の世界などは、正に奇術以上に奇術的な現象の種の一大宝庫ともいえよう。ここにおいて、奇術の心は科学の心に通じるのである。

 奇術の不思議さを感じ取る能力のある人こそ、奇術家たり得る資格の第一歩であるのと同様に、自然界の不思議をそのまま見過してしまうことなく、正確に不思議と感じ取る能力こそ、科学者たり得る第一の資格であり、 さらには、このようにして捕えた不思議を解明し、追求する手段の創造こそ、科学者にとって最も大切なこ とであるにちがいない。

 奇術には失敗がつきものである。私もアマチュア マジシャンの例にもれず、ずいぶんと失敗が多い。先日、友人の結婚式の披露宴で所望されて即席奇術をやった。いっ たん破った紙が元どおりになり、メ デタシメデタシという簡単なものだが、即席であったので、紙は普通のチリ紙を用い、破った紙を再生させる際に、卓上にあったシャンペンを取って、「このシャンペンをかけますと、先程バラバラにした紙が、これこのとおり・・・・・」とばかり広げようとしたが、チリ紙がシャンペンを吸って半ば溶けてしまっていて広げることが出来ず、全員爆笑ということになった。

 ところで、奇術は失敗のあとの処理がむずかしい。失敗を失敗と気づかせずに、終れるようになれば大したものである。それには絶えず一つの奇術に対し、起こり得るすべての結果を予測し、いつでもそれに応じられる態勢を整えておく習慣が必要である。奇術だけではな く、これは科学実験、臨床診療などでも平生から心掛けておかねばならない基本的態度である。恐らく、奇術は、このような習慣を楽しみながら、体得するに最も適した趣味であろう。

 最近、私たちの教室のS助教授が、1961年以来の数々の全く独創的な研究により、純有機化学的手法による世界初の蛋白質合成に成功したということが報道され た。

 生あるものすべて蛋白質の塊りであるところから、これを生命の創造と結びつけ、「生命の創造と奇術との関連性」について、力書房主の荒木茂郎氏より、拙文を求められたが、もとより単に一蛋白質が合成できたからといって、直ちにあたかも、われわれの奇術の如く、鳩や兎が次々と試験管の中から生まれ出てくるものでないことはいうまでもない。従って、こうした大それた題は敬遠させていただいたのである。

 し かし酵素反応こそ、生命現象の本質であるという見方に立つならば、酸化還元(呼吸)酵素の一種であり、 しかも、わずかながら生物学的活性をもった分子量13,000の蛋白の合成成功は、われわれに生化学の究極の目的でもある生命の合成へ、無限の可能性と夢を与えてくれることは確かである。

 あたかも月探検の成功がわれわれに、火星や金星さらには太陽系外の宇宙探検への限りない大きな夢を抱かせてくれるのと全く同様に。

 このような夢の実現は、百年後か千年後か、あるいは地球の人類時代には、ついに実現不可能な、神のみがなし得る最大の奇術であるのかも知れない。しかし、神秘と幻想の世界のからくりを求めて止まぬわれわれ奇術愛好家こそ、この夢の実現を信じ期待しつづけて行きたい。

                         

   左:「教授」ダイ・バーノン氏(中央)とマジックキャッスルにて  右:「天才」スライディーニ氏(中央)宅で 向かって左端は筆者

                    随筆集目次へ              e-mail