想い出の曲 心に残った歌
伏見医報 2005 12月

 1956年高山義三京都市長の時代に「京都市市民憲章」が制定されました。曰く、
 わたくしたち京都市民は,美しいまちをきずきましょう、 清潔な環境をつくりましょう、 良い風習をそだてましょう、 文化財の愛護につとめましょう、 旅行者をあたたかくむかえましょう。
 と言うものです。これを実現する上での具体策の一つとして同年4月、市民文化の醸成と青少年の情操育成のために、古都京都の新しい文化創造の担い手として京都市交響楽団(京響)が日本で唯一の自治体直営のオーケストラとして創立されました。因みにNHK交響楽団は1951年(N響の前々身である新響は1926年)、関西交響楽団(後の大阪フィル)は1947年、群馬交響楽団は1963年の創立です。
 初代常任指揮者カール・チェリウス氏による厳格な猛練習のお陰で数年にして毎日音楽賞、大阪府民劇場賞、大阪府芸術祭賞、文部省芸術選奨などを受けました。
 しかし当時京都市内には本格的なコンサートホールは無く、わずかに現在「都をどり」開催で有名なギオン彌榮会館(1936年建造)が多目的ホールとしてあるのみでした。ここは大東亜戦争中、所謂風船爆弾の製造工場になっていた所です。


カール・チェリウス氏
 市民憲章が制定された頃から漸く左京区岡崎公園周辺の整備が始まり(現在も続いています)そのトップバッターとして1960年に竣工したのが「京都会館」であり、やっとの事で京響の練習場所と京響が優先的に使用できる本格的なコンサートホールが完成したのです。
 さて、「京都会館」完成の数年前と言えば私が大学医進過程に入学したころでしたが友人からプリムローズ合唱団(以下プリム)への入会を誘われました。私は歌にはあまり自信がなかったのですが知りあった友人や先輩方も大勢入会されていたので一人ぐらい音程のずれたものが居ても良いだろうと思って仲間に入れて貰いました。オーケストラが美しく聞こえるのは全ての楽器が完全には同じ音程で演奏出来ないことによるものだと私は今でも考えています。
 週に一回大学近くの公民館の2階を借りて楽しく歌わせていただきました。ここでそれまで全く知らなかった多くの曲をたくさん覚えました。

現在の京都会館
 そしてプリム入会2年後に京都会館第一ホールが完成を迎えたのです。カール・チェリウス氏は京都に初めて出来たコンサートホールの最初の演奏となる曲に、京都市民のコンサートホール実現への喜びを表すのに相応しいベートーベン第九合唱付き、所謂「歓喜の歌」を選ばれました。
 そして合唱は出来るだけ幅広くクラシックを愛する京都市民から選びたいとの方針で京都市内にある全ての合唱団へ参加を呼びかけられた結果、市内に有った46の合唱団が参加することになりました。私たちのプリムからも15名位が参加したと思いますが数は不確かです。すでにこけら落しとなる開館日は1960年4月29日と決定し、第九演奏は29及び30日の午後7時開演と決まっていました。
 早速各合唱団から有志が集まり同年1月24日冷たい吹雪の夜、最初の合同練習が始まりました。たいへん寒い日で誰かが「寒気」の歌だねと言っていたのが思い出されます。

 練習は京都音大講堂で週に2回、夜の2〜4時間を使い、京都音大の桜井武雄先生の指揮による厳しいしかし和やかな雰囲気の中での猛練習が続きました。
 無断遅刻欠席厳禁、後には練習会場には毎回身分証明証を見せて入るなど余りの厳格さに、最初800名居た「合唱」参加者が一人減り二人減りして結局最後まで残ったのは500名余りでした。
 練習は報道陣などを完全シャットアウトして行われました。日本最初の自治体直営4管編成オーケストラを指揮して当時京都ではあまり演奏されたことの無い「第九」演奏にかけるカール・チェリウス氏の意気込みは相当のもので、下手な練習風景は見せられないという配慮があったものと思われます。
 実際当時桜井先生が言って居られたように「この響きではない、もっと素晴らしい響きを」とバリトン独唱が歌い起こすベートーベンの願いそのままに練習を続ける内に少しずつ少しずつ「歓喜の歌」らしくなって行きました。
 ソリストには ソプラノ伊藤京子、アルト市来崎のり子、テノール柴田睦陸、バリトン中山悌一氏が選ばれいずれも当時のソロ声楽家の第一人者でした。
 3カ月の厳しい合唱練習の後、4月18日になると未完成の京都会館第一ホールを使用してオーケストラやソリストを交えて総仕上げの練習が演奏会前日の28日まで続きました。
 いよいよ29日初日午後7時の開演です。満席の聴衆を胎んだ静寂の中でカール・チェリウス氏指揮による第九演奏が始まりました。1楽章から3楽章までは私たちには出番が無いので楽屋裏や天井桟敷のような所ではやる心を抑えながら立ったままで聴き入っていました。2楽章が終わった時点で控え室に入り、3楽章が終わると同時にオーケストラ後部の所定の位置に500人が並んで立ちました。
 そして4楽章、オーケストラ、前述のバリトンソロに続いて合唱部分が始まりました。3カ月間の苦しくも楽しかった練習を思い出しながら全員が一つになり気持ちを込めて歌ったつもりです。Freu - de, schö - - - ner Göt - ter-fun - ken! Göt - ter-fun - ken! と歌い終わってからのPrestissimo(最も速く)、sempre ff(終りまで続けて思い切り強く)で演奏される最後の20小節が突然終わり瞬時の静寂を置いて万雷の拍手を受けたときには歌い終わった喜びで本当に全身がしびれたと同時にこの曲が私の「想い出の曲、心に残った歌」となったのでした。
 翌日も同様に感激に浸りながらしかし初日に比べると少し余裕を持って歌いながら観客席を眺めたりすることも出来ました。

 あとがき:その後京響指揮者は、1961年より2代目指揮者ハンス・ヨアヒム・カウフマン氏、ついで森正氏、外山雄三氏へと受け継がれ、日本有数のオーケストラの一つとして確実に成長して行きました。
 1995年秋には地下鉄北山駅前という最適の地の利と最新の音響設備に恵まれた「京都コンサートホール」がオープンし、本拠地を京都会館からここへ移して一層飛躍するための環境が整いました。そして2001年,第11代常任指揮者として大友直人氏が就任され今日に至っています。

こけら落し当日のパンフレット
 あとがきU:京響の披露演奏会は1956年6月18日先斗町歌舞練場で、第一回定期演奏会は翌19日円山公園野外音楽堂で開催されました。曲目はヴェルディ/歌劇ナブッコ序曲、シベリウス/フィンランディア、ベートーヴェン/交響曲第五番だったそうです。
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