「輪 廻 転 生」 京都医報 Jan.,.
1997
「生れ変わり」とか「輪廻転生」についての文章が目につくようになった。還暦を目前に控え,「死」がより身近なものになってきたということであろうか。
よく見るのは,ある人が自分の前世は誰々であると言い出したので調べて見るとその言葉通りの人物が言葉通りの場所,時代に住んでいたというものである。しかし残念なことに信頼に足る実例にはお目にかからない。
死の直前に「あの世」に居る肉親や信仰の対象などが表れ誘われ,来世を確信することができて恐れが消え安らぎを感じたなどという臨死体験もよく聞く。これらの体験は真実とは思うが,死後の世界が客観的に存在するということにはならない。
また,多くの宗教が死後の世界を肯定しているが,これも科学的に解明されたものはない。肉体と魂とは別であって肉体は滅んでも魂は不滅であるという考えには科学的裏付けがなく現時点では賛成できない。ただし後述するが,「肉体」と分離された「魂」の保存はいずれ可能になると考えている。
一体「輪廻転生」とは荒唐無稽なたわごとなのだろうか。いやそうではない。いつか死を迎える私達が「輪廻転生」について科学的に肯定できるなら心の安らぎははかり知れない。
さて,人が死ねばどうなるか。焼かれて灰になったり土中で腐ったりいろいろであろうが,とにかく一旦原子(または分子)の段階までばらばらになるのであろう。核分裂まで起こして原子以前の状態になることもあるかもしれない。
地球圏(宇宙)全体の原子の数は一定しているのだから,結局は生まれ出て来る次の世代の生物も無生物も全てがこれら死者の分解物である原子などを使って再生されることは確実である。つまりこの段階で「輪廻転生」は不思議でも何でもないごく当たり前のことだと気付く。
それではこのようにして再生された物体が生物となり,人間となりさらには自分自身となることはないのだろうか。これも部分的であれば有って当たり前ということになる。私の身体の素材は過去には他の生物の一部であったことがあるに違いない。証明したければアイソトープでマークしたマウスを閉鎖空間で数世代飼育すれば簡単に証明できるであろう。
では部分的つまり原子レベルだけでなく,自分自身の身体全体が一旦原子にまで分解された後に再び全てが元通りに結合して元通りの身体になることはないであろうか。 非常に小さい確率(この確率をωとする)ではあるが,当然有り得ることである。確率の小ささの故に実験不可能ではあるが,頭の中で考えただけでもωがゼロではないことはすぐに理解される。
これで料学的に考えても,ω>0即ち「輪廻転生」は私達の知る自然の法則に合致することが分かった。
次にωの値がより大きくなる事実がないかを考えてみた。
私が「私」であるためには身体全体が必要であるだろうか。否,手足,心腎肝などはなくともまた他人のものであっても,私が「私」でいられることは経験的に知っている。即ち「私」を作っているのは脳の中のそれもごく一部分であり,その部分のみに限った「転生」の確率はより大きくなる。
さらにこの確率を大きくするのが,完全に同一物でなくとも「一体感・・・・私が私である感じ」は得られるという簡単な事実である。
今の「私」は数年前の私とは全く別物である。全ての細胞はその後摂取した食べ物によって置き代わっているに違いない。それにもかかわらず数年前の「私」と今の「私」との間に「一体感」があるということは「転生」したものが同一物でなくとも相似物であれば十分であることを示している。
確率をさらに大幅に大きくして1に近づけることのできる別のパラメーターもある。それは時間である。
ω=at(aは比例定数,tは時間)とすると,時間を永遠に続くと考えてtを十分大きくとればωは限りなく1に近づくのである。
しかも嬉しいことに,死者にとっては時間の感覚は無いと考えられるから.「転生」が完成して「私」が再生され生まれ出てくるのに要する時間は死者である「私」にとっては「束の間」であるに違いない。
このようにして再生した「私」は記憶を喪失した生前の「私」の状態にある。しかし,記憶を受け入れる肉体が同一物(相似物)である限り,新しい「私」も人生経験をつみ重ね「記憶」がINPUTされるにつれて生前の「私」自身であるという「一体感」を感じることができるようになるであろう。その時の「私」とは一体どのような人物(生物)なのであろうか。誠に興味深い。
ときどさ,ある経験をした際,それが全く初めての経験であったにもかかわらず,「ああいつかこれと全く同じ経験をした,同じ風景の中に居た」などと感じることはよくあることである。もしかしたら前世の「私」の一部が今の「私」の「記憶」の中に刻み込まれる瞬間であるのかもしれない。
では「記憶」についても元通りの「記憶」をINPUTできないだろうか。これは「私」の「転生」が完成するよりもはるかに近い将来,可能になると考えている。
壮大な人ゲノム計画が完了し人体構造が分子生物学的にさらに細部にわたって解明されるようになれば「記憶」のメカニズムも原子/分子レベルでの電子配列の変化といったごく単純なものであることが分かるに違いない。
そして現在のコンピュータと全く同じ原理で「記憶」つまり心・魂・精神といったものを取り出して長期間保存し,別の人間に移し替えることも可能になるであろう。つまり「肉体」と「魂」の完全な分離が実現することになる。
また,私達が幼少期の記憶がないことを恐ろしいと思うことがないのと同様に,物理的に同一物(相似物)が再生されさえすれば「記憶」の無いことは「一体感」を実現する上で大した問題ではないのかもしれない。
考えれば考えるほど面白いことである。必ず来る来世を楽しみにしながら「束の間」の死を迎えることができれば幸いである。