裁判員制度について思ったこと    伏見医報 Jan., 2009

 今年5月から始まるという裁判員制度について、すでに小生は裁判員の対象にはならないのですが、医報原稿を求められたのを機会に少し考えて見ました。知人であるS弁護士の意見や多数のNET記事を参考にさせて頂いたことをお断りしておきます。

 裁判官抜きで12人の陪審員(一般人)のみで有罪か無罪かを評決するアメリカ合衆国(以下アメリカ)の陪審員制度では陪審員の責任は非常に重いと思われます。特に重大な事件では弁護士・検察双方ともが、陪審員を説得するために多大の労力を払います。重大疑惑を持たれた被告は、弁論によって陪審員の心に強く訴えかけ、その疑惑をくつがえしたり、はぐらかしたり出来る有能な弁護士を求めます。弁護士には、単に弁論がうまいだけでなく重要な証人に多額の報酬を支払ってでも出廷させるだけの財力や能力も要求されます。そして、重要証人ともなれば命を狙われることもあるのです。

 5月から採用される日本の裁判員制度ではどうでしょうか? 有罪か無罪かを決めるだけでなく、死刑・無期懲役などの量刑までも決める裁判員制度では、有罪無罪のみを決定する陪審員制度に比し、裁判員はより重大な責任を負うことになるのではないかと思われがちですが、事実はそうではありません。

 有罪・無罪・量刑を決めるのは、6人の裁判員(一般人)のみによってではなく、3人の裁判官との合議制なのです。ここに落とし穴があるように思います。つまり結局は裁判のプロである裁判官の意見が採用されることは想像に難くありません。アメリカの陪審員のような裁判官からの独立性は保証されていないのです。ですから裁判に対する精神的な責任は格段に軽くなるし、反対者から命を狙われることもないでしょう。

 少し見方を変えて見ましょう。 現在までの日本の刑事裁判のありようは、法廷に検察官から提出される供述調書を裁判官がそのままう呑みにし、被告人が、密室の取調室でひどい心理的強制のもとで取り調べを受け、調書がいかに一方的に作成されたかを裁判官に訴えても、裁判官は殆ど聞いてくれないので、検察官は法廷で何もしなくても有罪判決を得ることができるような状態で、被告人や弁護人にとっては、大多数の刑事裁判は絶望的なものでした。有罪率99%以上という現実のもとで先入観に支配されている裁判官は「この被告人も見え透いた弁解をして何とか罪を免れようとしている」としか受け取ってくれないからです。(この辺りS弁護士の意見)

 これを打開する道の一つが裁判官に有罪無罪の決定権のない、従って検察や警察の証拠調べ、証拠固めなどは、陪審員を納得させるために、より慎重にならざるを得ない陪審員制度の導入でした。しかし、日本の検察がこのような制度に賛成する筈がありません。また最高裁も有罪無罪を決定するのに職業裁判官による裁判よりも素人裁判が優れているなどとは認めたくないでしょう。ですから今回実施されようとしている日本の裁判員制度は、一般人が参加するように見せかけて、実際の裁判はこれまでどおり検察と裁判官の思うがままという中途半端な、「裁判員制度」になったのだと私は思っています。

 このように書くとやはりアメリカの陪審員制度の方が優れていると思われる方もあるかと思いますが。もちろん陪審員制度にも欠点があります。

 陪審員制では、一般人である陪審員が有罪無罪を決定するので、前に書いたように弁護士の優劣が陪審員の判断(評決)を左右しかねません。妻の殺害によって起訴されたフットボールの全米スター、O.J.シンプソンが、いつの間にか人権問題にすり替えられて事件の真相はうやむやの内に無罪となったことがありましたが、人種的公平さに欠けることも陪審員制の欠点と言われています。

 また、大企業を相手にした訴訟では、陪審員は反大企業の姿勢をとることが多く、原告(主に個人)が勝訴すると、日本では考えられないような巨額な懲罰的賠償金を取得するという事態が続出し、訴訟亡国アメリカ論が発生しています。

 これに対して裁判員制度では裁判のプロである裁判官が有罪無罪の判定に関わるので、陪審員制度ほどには弁護士の優劣は裁判結果に直結しないと思われます。

 今のところ裁判員制度では重大な刑事事件しか扱われないことになっているようですが、将来を考えると、私たち医療従事者にとっても決して無関係なことではありません。アメリカのような訴訟流行大国になって、訴訟を恐れるがあまり萎縮医療が蔓延し、民益・国益を損なうことにもなりかねないからです。 既にその芽は見え始めています。

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