楽 し み         伏見医報  jan.,1978

 いろいろと楽しみを持つことは、大変とくなことである。楽しみを持たない人に比べ、楽しみを持つ者は、実質的に2倍も3倍も永い人生 を過すことになるのではないだろうか。かといって楽しみに溺れていては時間とお金がつづかなくなり、ついには楽しみ変じて苦しみとなることさえある。浅くともよいからなるべく巾広い楽しみを持ちたいものである。

 高校時代の私は今と同様、勉強嫌いの怠け者であった。異性が気になる年頃である。どうも女性という種族は頭のきれる男性にあこがれる傾向 がある。一寸難問奇問を解いてやって女の子と仲良くなるなどという芸当の出来ない私は、別の手段を選んだ。写真である。兄貴のカメラを持ち出して、じやんじゃん写した。ついでにD.P.E.セットをそろえ、これはいかすと思う子がいるとチャンスを見つけて撮る。美しく見えるように適当にデフォルメさせ、大きく伸ば してプレゼントする。

 昭和28・9年の頃である。当時の高校生の間では今程カメラも流行っていなかったのでこれは大変な効果があった。 文化祭ともなればさながらスタジオ写真師の如 く、あの人に撮られなかったら美人でないと思ったのかどうか。とにかく主だった女生徒の写真は全てそろえ、お友達の方も適当にその中から選択させて項いた。

 いい気になって喜んでいると、ある時とうとう人の居ない所に呼び出されて6・7人の男子生徒からナマイキだとばかりいやという程なぐられた。以後謹慎して15年の間、女性の写真を撮る事を止めていたが、ここ4・5年前より、ネガやポジカラーの現像引伸ばしを自分でやるようになって、最も色合わせが微妙で難かしいものの一つが女性の肌の色感だということがわかりかけて、この色出しに挑戦を試み始めている。

 ところで良い写真を作る 第一歩は、先ずカメラをしっかりと安定させる事であり、頑丈な三脚が必需品である。残念ながら国産品ではまだ充分なものが見当らない。私は一昨年、レンタカーでフランスの片田舎を10日間かけて一人のんびり写真を撮ってまわった際、確かモンサンミシェルに近い町のカメラ屋で素晴らしい脚を見付けたのでこれを買い求め愛用している。機関銃の台座メーカーの製品で少々の風ではビクともしない。GITZOというブランドである。

 写真材料のショッピングに夢中になっているうちにうっかりしていてレンタカーのキーをなくしてしまった。数百キロも離れたパリのレンタ店に電話したところ、すぐに近くの支店に連絡して新車を持って来てくれた。 しかも無料サービスである。生活と密着したあたりまえのようなサービスぶりにヨーロッパの先進ぶりを知らされた。

 話は少し前にもどり、思い出多かった高校生活を終えて大学生活も1年2年を過ぎる頃になると、暇をより有効に使うため、車が欲しくな つた。丁度親しい友人が英国製おんぼろスポーツカーを見つけて来たので2人で有金全部をはたいてこれを共有財産とした。

 フェンダーはくさって穴だらけ、座席は中から綿のような物がはみ出し、動くとエンジン以外の場所から異様な音を発し、おまけに湯気をシユーシユー音を立ててふき出すので、交差点で信号待ちしていると、となりに停車したカーキチから「ほう、 蒸気自動車ですか」と本気でたずねられた。幸いエンジンだけはしっかりしていたので、コツ コツ整備すると毛並みの良さをはっきし、見ちがえる程の名車となって級友を驚かせた。

                   

 先ずは遠乗りということになり、東京方面へ出かけ た。勿論高速ハイウェーなど開通していなかった頃のことである。 行きは良かったが、帰り道になって、ラジエーターから水が流れ出して来た。付近の修理屋に寄っても、始めて見る車のこととて珍らしそう に眺めているだけでどうすることも出来ない。 さながら散水車のような状態となって来たので、水入りの灯油カンを二個積んで10分毎に止まっては水を補給してまた走るということにした。 折からあいにくの空模様で晩秋の雨は骨身にこ たえた。

 箱根の峠をやっと越えた所で突然ハン ドル(ステアリングホイール)が音も無く抜けた。あっけにとられ、しばし茫然としているう ちに、道は右曲がりだったため、左手の山肌が眼前にせまって来た。あわてて力一杯ブレーキを踏むと、あやうい所で岩を少しかすめ、前後逆になって止まり、すんでの所で命びろいした。

 その後5年あまり、まさに我が子の如く大切に可愛がっていた名車だったが、ある人から懇望されて、ガレージに屋根もない私宅に置くよりもと、思い切って他家へ片付かせた。以来、音信不通であったが、昨年10数年ぶりにその消息が知れた。今も元気な走りっぷりで神戸の旧い街並みに色をそえているということである。

 医学部1・2回生の頃であったか、催眠術入門なる本が広く読まれていたので私も一読した。家庭教師で中学生を数人教えていたので、その中で最もやかましくてききわけのない子を実験台として本に書いてある通りにやって見ると、 当の自分がびっくりするくらい深くかかり、特殊なラポールが生じたせいか、その後は私の言うことを大変良く聞くようになった。

 これは面白いとばかり、知り合いの老若男女手当り次第にやって見た。一流ホテルのロビーで裸でめしを食う、数年来の片想いの恋人にキスさせろ、あこがれの俳優とデートしたい、血のしたたるステーキをご馳走せよ、鳥になりたい、ハワイに行きたい、などという希望を片端からかなえてやって不思議がられた。

 私の経験では、相手が誰であってもかかるというわけではなく、自分を知られすぎているような先輩、親しい友人、 目上の人等はかかりにくい。また催眠術を恐がったり、嫌がったりする相手も駄目である。それ以外の人物であってこちらの言うことを聞いてくれて理解出来るだけのIQがあれば十中八・九こちらの意のままに相手の心を操ること が可能である。

 ノイエヘレン時代、診療アルバ イトの際のムンテラに応用したりしたこともあ つたが、これは健保点数ゼロ(非確認)なので、やればやる程病院に迷惑をかけることになる。 好き嫌い、夜尿症、不眠症、ぜんそく、ノイロ ーゼ、ある種の胃病、種々の疾患における疼痛や不安の除去等に、ゆっくりやれば著効を示し又、薬害の恐れなど全く考えなくてよいのだが今の点数制ではとても治療に応用出来るものではない。最近はせいぜい自分自身の不眠時、意志集中を必要とする時等の自己催眠に応用する位のものである。

 今世紀始め、アメリカ生れのユダヤ人でハリー・フーデイーニという人物がいた。奇術家である。彼は世界の一流錠前師の作った手錠を観衆の面前で難なくはずすことが出来た。ワシン トンの刑務所に裸体で閉じ込められてから2時間で脱け出し、ついでに自分の服が入れてあった金庫までもあけてきた。また真冬のデトロイト河にはりつめた氷を砕いてその穴から手錠をはめたまま裸で飛び込み、8分の後、潜水夫が救出に向おうとしている面前に見事現れてきた。 彼の死は、舞台のガラス張り水鉢の中にうしろ手にしばられたまま逆さにつるされ、上からかたくふたをされた状態からの脱出に失敗して悶死したと伝えられるが、実際の死因は、虫垂炎の悪化であったらしい。

 もともと私は奇術を見るのが好きで、このような奇術家の話などを聞 くと自分でもやって見たくなった。奇術をやるとはいってもなかなかきっかけがない。ところがうまい具合に同級にセミプロ級の腕前の持主 がいたので、彼の教えを乞うことにした。

 彼は実に親切に面倒な手順を手とり足とり教えてく れて、お蔭で私も少しは人前で演れるようにな った。後年、全く偶然に世界中のプロ・アマ奇術家が必ず訪れ、マジシャンのメッカとなっているロサンゼルス・ハリウッドのMagic Castle という高級ナイトクラブ(奇術が出来れば無料だがそうでなければ最低二百ドルはないと入れない)の近くで数年を過すことになり、勉強そっちのけでここの常連となって、それ迄夢の中の存在でしかなかった″天才″スライデイーニ氏や″教授″ダイ・バーノン氏達 と親しく語り合え、また創作奇術を見せあったり したことがなつかしく思い出される。

            

 奇術をやるようになって、それ迄てれやであった私が不思議と多勢の人の前に立っても全然威圧感を感 じなくなり、一旦自信の出来たこの強心臓は外国でのセミナーや研究発表に際しても私の学問的未熟さや語学の拙さを大いに助けてくれたこ とではあった。また、パーティ好きのアメリカ人宅にもしばしば招かれ、研究室以外の友人をも沢山持つことが出来た。まさに芸は身を助くを身をもって経験した。現在、奇術の手ほどきを教えてくれたこの敬愛すべき恩人は形成外科を専攻し、日夜研究にはげみ、立派な専門書も書いている。さぞかしあの見事な手さばきを駆使し、数多くの美男美女を作り出している事であ ろう。

 京都での実験室時代の5年間はそれこそ多忙の極みであった。バイトなしでは食えないので午前中はバイト、その代り夜は連日夜中迄、そこいらにいくらでもいるマウスの小さな心臓の中にある酵素の量の何億分の一かの量のそれもまがいものの酵素作りに没頭した。そのころの楽しみといえば20分でも30分でも手の空いた時に気軽に出来るのがプラモデル作りであった。

 少年時代には朴(ほう)や桂の大木を買って来て、何ケ月もかかり乾燥させ、切ったりけずったり してソリッドモデルを作ったこともあった。当 時はこれがモデル作りの本道だと考えたりもしていたのだが、主としてアメリカから安価で精度の高いプラモが入ってくるようになると比較的簡単に出来て実物に似ているという点で、プ ラモにかなうものはないと悟った。

 プラモで面白味のあるものはやはり車であった。1800 年代の型の物から年代順に並べて眺めてみると 車だけでなく、当時の風俗習慣の移り変りまで目に見えるような気がしたものである。MPC ・AMT・ヨハン・モノグラム・ヒユープレ等の製品は文句なしに良かった。プラモ作りの最難関である塗装を含め、半年もかかって完成した作品を夜がふけるのも忘れて何時間も飽かず眺め空想にふけったこともある。

 当時と異り今や実物のみならずプラモの世界迄、日本製品が世界を制覇したかの観があるが、これは上辺のみで、魂を打ちこんで(少々オーバーのきら いあり)プラモ作りに専心するにふさわしいキ ツトは日本製ではまだお目にかからないのが残念である。蛇足ながら人体模型プラモも各種あって、ほぽ実物大の頭部を組んで見れば、頸椎や頭蓋内、周辺臓器の位置関係が良くわかり、もう一度ゼクをやっているような気分で大変楽 しいものである。

 30代も終りに近づいてともすれば腹が出てくるのが気になり出した。原因は運動不足以外の何物でもないことは明らかである。ゴルフを始めてみたがなかなか思うように飛ばないし、うまくなりそうにもない。そのうち日本式ゴル フの持つ致命的な欠陥に気がついた。ゴルフは腹の出るのを押さえるのに全く役に立たないということである。

 役に立たないどころか、カートはか弱き女性にはこばせて、数ホール毎にジ ュース・コークで喉をうるおし、おでんを頬ばり、昼には焼き肉定食、ラウンドを終って風呂上がりにわいわいさわぎながら飲むビールの味は又格別。その上18ホールを走破した後とて腹はペコペコ、普段に倍して食事はうまい。おまけに夜は夜で早やすぎた夕食のため、何か詰め込まねば眠れるものではない。それやこれやで昨夜の体重を今夜ははるかにオーバーというこ とになる。

 そう思って見ると、ゴルフ愛好者には出っ腹の人が縫分多い。そこでゴルフは月一 ゴルフを適当に楽しむということにして健康のためのスポーツは硬式テニスに鞍替え した。以来毎週、昼夜二回若い人達と一緒になって汗を流している。

 テニスはゴルフに比しはるかに運動量が多いし、途中飲み食いも殆んどしないので身体の調子もすこぶる良く、腹囲も少し細く なって来たようである。最近は立派な全天候型コートが増え、いつでも気軽に楽しめる。年を忘れて夢中になってやっているうちに先ずやられたのがアキレス腱。仕事をサボッて信州に行 き1週間ぶっつづけで朝6時から日没迄やったのがたたったのか、切れこそしなかったが疼痛甚しく再び出来るようになるのに1ケ月半かかつた。ついでやったのが右手の腱鞘炎。「ラケ ットはV・W・X指で支えて、T・U指は自由にしておいて打つ瞬間に力をこめて振るとい う原則がほぽ自由に出来るようになって嬉しく て仕方がなかったところだったのでこれはショックであった。実はこの原稿を書いている今もまだ完全には治らず少し痛いのである。それで もモビラート湿布をしてサポーターをはめてな んとか新春初テニlスは済ませたものの、この分ではまた本格的にやれるのはいつのことかと気になっている。

 過に2回も汗まみれでテニスに行っていたものからこれを取り上げられるととたんに暇が出来すぎたような気がした。わけあって私は目下独り者である。特に秋の夜長の退屈さはどうしようもなかった。それならこれを機会にレコー ドでもじつくり聴いて見ようかと考えた。

 私のステレオコンポは今から16年前(1962年)に手に入れた物である。当時としてはそれなりに苦心して選んだつもりであったが今となってはさすがに古 くさく、音まで古くさく聞こえてくる。特に我慢の出来ないのがプレーヤーとFMチユーナーであった。

 今と違ってプレーヤーは箱型のため、少しボリュームをあげてもハウリングを起こし、部屋中が地震の如くになる。また、FM感度が悪く、専用アンテナを使用してもSN比が良くならない。そこでとりあえずこれらを替えなけ ればと思い、DDフルオートの名機SL1300・205CUH付とSA8900U+TX8800Uを手に入れた。

 これで感心したのは、チューナー・アンプよりもプレーヤーの進歩である。ハウリングのおきにくくなっているのに 感心した。そしてよくもこのうすっペらな板1枚にこのような素晴しい音が入っているものだとあらためて驚いた。こうして聴いてみると最後に残ったスピーカーが気になり出した。

 元々このスピーカーは私の自慢の品であって、古いながら素晴しい美声で、聴いてくれた友人がことごとく賞めてくれていた物である。よう し今度医院を作る際、この16年物はそちらへ持って行くことにしてひとつ更に良い物を見付けてやろうと寺町通いが始まった。幸いここで も親切な協力者が現れて世界のあらゆるスピーカーをとっかえひっかえ鳴らして聴かせてくれ た。

 ああでもない、こうでもない。これはジャズには良いがクラシックにはも一つ、別のはその反対という具合に、私の「どのような音楽にも通用するもの」というぜいたくな望みはなかなか叶えられなかった。ところが昭和五十二年暮もおしっまって、とうとう気に入った音に出 合ったのである。名前を開けば、なあんだとい う事になるがJBLである。箱はJBL・サンスイ共同製作の重量級である。前評判やうわさでは、これは典型的なアメリカタイプのスピー カーで、キンキラキンの音は良く出るが、静かなクラシックには不向きだと聞いていたのであ まり興味がなかったものであるがどうしてどう してそんな事はない。百聞は一聴にしかず。バ ッハがモーツァルトが涙のにじみ出そうな情感を伴って静かに静かに流れ出てくるではないか。

 勿論ダイレクトカッティング45回転のパーカ ツションの迫力はそれこそ強烈で耳を聾するばかりである。とにかくこのJBLに出合って文句なしにこれに決めた。昨今は右手をなるべく 長時間安静に保つため時には消え入る程の優しい音色で又時には堂々たる大音量でレコード演奏を楽しんでいる。

 雑誌によれば38センチのウーハーを18個も使用した装置で静かにクラ シックを楽しんで居られる大先輩も居られるとか。又右京のK先生の装置も凄いものであるら しい。1度その20数個にも達するスピーカー のゆるがす空気に触れさせていただきたいものである。

 指揮者の朝比奈隆さんは元京大オーケストラのバイオリン奏者で、しかも大学に入ってから始めてバイオリンに触れられたのだという事を真偽の程は定かでないが耳にした事がある。現代に生きる者、楽器の一つ位こなせられなければ現代人としての資格に欠けるのではないか。事実今の10代20代の人達は実によく楽器をこなす。それ等が決してつけやき刃でなく、よく身についていて実生活と溶け合っているのにはほとほと感服させられる。

 そう考えて三年余り前から始めたのが電子オルガンである。私には個人レッスンは向かない。先生の云う事を聞かなくても、自分が損するだけで誰にも迷惑がかか らないので、いきおいいわれたことを次の過までにして置かないのである。これは20年も前にやりかけたバイオリンの時に思い知った事であ る。そこでグループレッスンを選んだ。これな ら一人が宿題をして行かなければそのクラス全体の足を引っ張ることになり他人に及ぼす迷惑大であるからしていかざるを得ない。或は志を放棄して黙って去るしかない。つまり生か死かである。このグループに入って強烈にしごいてもらった。

 成人クラスといえども私以外は大体20代以下の人達である。その中にあってただ「出来るか出来ないかはその人が何才の時に始めたかではなくて1にも練習2にも練習をバカ のようになって出来るかどうかにかかっている のだ」という私の信念を実証したい一心でとに もかくにも3年間がん張って来た。私の通っている教室にはおよそ500人位の生徒が居るよう であるが一年つづけるのはそのうち100人、2年 つづけるのは50人、2年つづければ大体その あとずっとつづくそうである。

 ともあれ入会当初の目標であったシングル(9級以上を云う。 最初は14級・全国共通)の壁をつき破り8級のテストを数週間後にひかえ、とてもこのよう な駄文をながながとつづけて書いて居れる状態ではないことに今気がついた。おまけに今回は昨年11月の私院開設のため余儀なく2ケ月以上のブランクがあったのでまことに心もとない。 今からテストに落っこちた際のいいわけを書か せていただく。数年後いや10数年後には名プレーヤーT.KANOMIさんの15年位前の程度にで もなれたらと願いながら終りへ急ごう。

 私医院は欲張って、外科、整形外科、肛門科、内科を標榜させていただいた。昨今の医学専門化、細分化の波の中でなんと時代錯誤的な行き方をするものかと先輩諸兄姉からお叱りを受けるかも知れない。しかしこれは正に私の生き方そのままの反映である。

 学部時代に得た医学全般の知識を生かすべく、総合診療とプライマリ・ケアを目指した多科診療を試みているのは人生を2倍にも3倍にも巾広く生きる為の生活の知恵の一環でもある。医学部卒業以来の経験から一応どんなクランケが来ても驚かないだけの守備範囲の広さには自信を持っているつもりである。しかしその深さについては正直のところあまり自信がないのでこれについては幸い京都の地に豊富な大学・病医院の優れた諸先輩、友人の助けを仰ぎながら、良き General Practitioner となるべく努力して行くつもりである。

    楽しみは浅くとも思いきり広く 学門は狭くともより深く  そうありたいものである。

                    随筆集目次へ              e-mail