追 想
1963年度京大医学部卒業記念文集「錯乱」より 1964年3月
昭和20年5月末、国民学校2年生になったばかりの私は、空襲を避けて父の郷里へ疎開し、J国民学校へ転校した。まわりを森で囲まれたなだらかな丘の中腹にある、広々とした運動場を持ったこの学校の2年白組の1員となり、多分勝手が分からずしょんぼりしていたであろう私に、初めて声をかけてくれたのは、隣席に居たS子であった。
彼女も私よりしばらく前に余所から転校して来たらしく、臆病で無口で恥ずかしがりやだった私とちがい、恐ろしくハキハキした威勢のよい子であった。
「アンタ京都から来たのネ、私東京ヨ! 東京と京都はどちらもテンノーヘイカのお家があるんですって、だからお友達にならない?!!」それまで京都では、家人に送り迎えをしてもらわなければ、一人で学校にも行けない程の弱虫だった私は、このラジオから流れてくるような正確無比(と私には思えた)の言葉を耳にして、いつか聞いたように、此処は田舎の学校なので2年生も6年生も同じ教室で勉強するのだろうかと思ったくらいであったが、やはり彼女の持っているノートには2年白組と書かれていた。
我がガールフレンド第一号S子ちゃんはこうして出来上がったのである。その夜、学校への送り迎えは明日から要らないという宣言をして母や姉を驚かせたが、その心境の変化の原因は分からなかったようである。
さて、S子は、偶然に席が隣り合わせになるという光栄でも無ければ、気の弱い私にはとても近寄れないと思われる程、背が高く大人びていて美しかった。しかしそれ以上に彼女は話術の天才であった。
仲の良い両親の事、自分が一人っ子でとても大切にされている事、東京では男の子を部下にしてイタズラをしてまわった事、いくらイタズラをしても自分は叱られないで男の子ばかり叱られるので可愛想になった事等々を、学校からの帰り道、二人の家だけがとび離れた所にあったので、その間、実にありありと、殆ど終始黙りこくっている私に元気良くいろいろな事を話してくれるのであった。まるで話すのが楽しくて楽しくてたまらないとでも云うように。私に文才があればそれらの話をつづるだけで立派な文集になったに違いない。
六月のある日、何かの予防接種があるので、全員が講堂へ集まることになった。当時、異常な程注射をされるのが怖かった私は、誰にも見付からないうちにともかく学校を抜け出さねば大変だと真剣に考えて、そっと上ばきを下ばきにはき換え、裏へまわって鉄条網をくぐり抜けようと苦心していた。
その時である。何をしに来たのかS子に見つかってしまった。「アンタそんなとこで何してんの」恥ずかしさと怖さ(講堂へ連れ戻されるという)で私が震えながら黙っていると「おチューシャこわくて逃げるんでしょう!」と来た。まさに心臓をタタかれたと思うような言葉だった。
なおも黙っている私に、「S子だっておチューシャ嫌いヨ、でもね、がまんする方法、私考えたの。今、針で突かれる、と思った時にもう一方の手で思い切りお尻をつねるの。お尻の痛さで腕の方の痛さなんか感じないわ。そのうちに済んじゃうでしょ。アンタもやってごらんなさい。」そして講堂へと引っ張って行かれたのである。
いよいよ自分の番になった。さながら絞首台にでも登るようなつもりの私だったが、やはり尻に手をまわす事は、後ろの方で彼女に見られているような気がして出来なかった。そこで別法を考えた。注射をされる左腕の手首を右手で支えるようなふりをして注射をされる瞬間イヤというほど腕をつねった。なる程彼女の言う通り注射による痛みは全然感じないように思えた。「どうして教えて上げた通りにしなかったの?」つねる場所を変えただけでその通りにしたのだという事も知らずにS子はたずねた。
1週に1度位の割で役場の警報サイレンが鳴った。やや離れた所にある軍の工場を爆撃するのだという事であった。敵の爆撃機や艦載機がきれいな編隊を組んで飛んで行くのが見られた。外を歩いていて爆音がしたら必ず道路わきに伏せるのですよ、と教えられた。味方機と敵機との爆音の違いをピアノを使って習った。
警戒警報が鳴る度に、授業は中断されて裏の森に逃げ込むのが常であった。森にはなんだかわけのわからない苺のような甘酸っぱい味のする赤い実や、わたのようにふわふわした、噛むと甘い汁の出る実(?)が方々にあり、食に飢えていた私たちの胃袋を楽しませてくれた。
私は小さなポケットをその赤い実で一杯にして、その日の放課後を待った。帰り道、例によって彼女の空想と創造を混えた楽しい話が一段落ついた時、私は汚れたハンカチにくるんだ赤い実をS子の眼前に取り出した。「ありがと」細い目を丸くして素直に喜んでくれた。
翌日、3時間目の授業が始まって間もなく、彼女は急に腹痛がすると言って、教師に連れられて教室を出て行った。私は昨日の実が原因ではないかと思って一日中気がとがめて仕方がなかった。
そのあくる日、S子は学校に来なかった。休んだのは初めてであった。午後になって担任の教師からS子の死を知らされた。昨日医務室でしばらく休んでから早退して1人で家に帰る途中、機銃掃射に会ったのだった。
注射器を見ると思い出されるのである。この愛すべき2年生と戦争の悲惨さが。