2022年夏の狂想曲
                            伏見医報 2022年8月銷夏特集号  栗原 眞純

 安倍元総理が凶弾に倒れて以来、統一教会(以下「統」)問題で揺れています。どうしてこのように日本の政界が「統」で統一されそうになってしまったのか、かっこよく言えば「日本を共産主義から守るため」だったのでしょうが、「統」と組むことが國を売ることにもなりかねないということに気づかなかった国会議員たちには呆れるばかりです。1945年第二次大戦終戦時まで遡り「統」についての感想を私生活を交えながら書かせて頂きました。

 1945年2月クリミアで行われたヤルタ会談で第二次世界大戦後の処理について米英ソが話し合い、その中に米ソ間の「密約」がありました。核未保有だった米は戦争終結を早めるためにソ連の対日参戦と引き替えに北方領土割譲や約半年後に誕生する国連安保理で拒否権を付与するなどを約束しました。同年8月原爆投下により敗戦、日本は朝鮮半島を失いました。
 朝鮮は南北の韓国と北朝鮮に分断、独立しました。この辺りから米(引いては西側諸国)の共産主義国への警戒心が高まり冷戦(自由主義対共産主義の戦い)へと突入します。

                          閑話休題

 1946年9月我が家は進駐軍(占領軍)に接収されました。若い頃6年余を米で過ごした父は、当時の世論や社会情勢、日米の圧倒的な国力差などを考えて日米戦争やそれに続く都市爆撃を予感し、1941年にシェルター代わりとしてRC造りのでか過ぎて住みにくい家を購入していました。父は直撃弾でなければ大丈夫と言って空襲警報の度に一番頑丈そうな狭い廊下に私たちを坐らせました。

 1947年11月父の米生活時代(1902年頃)の友人の息子さんが軍人になり韓国に行く(朝鮮戦争前の駐留軍として)途中で当宅に泊まって行かれました。嵐山に行ったり天ぷらをご馳走になったり、U.S.をあしらった金バッジをもらったり、カメラを階段で滑って落としたのに叱られなかったことなど良く覚えています。
                          * * *

 1950年6月25日未明、スターリンの同意を得て周到に準備した10万の「北」軍が38度線を越えて無防備状態の「南」へ突然攻め込んで来ました、朝鮮戦争です。兵員/武器/士気共にけた違いだった「北」はわずか3日でソウルを陥落させ同年8月には釜山付近までを制圧、一説では李承晩による亡命政権樹立を山口県に打診するも拒絶、その後米主導の国連軍投入により、「国連軍+南」は逆に38度線より北側深くへ侵攻、ソ連の支援を受けて「北」に参戦してきた中国(中共)軍との戦いになり、戦争拡大を恐れた米ソも介入、難航の末1953年7月「終戦」ではない「休戦」協定締結となり現在に至っています。

 そして米ソ冷戦の時代です。最大の危機はやはり1962年のキューバ危機でした。

 1989年中国共産党の恐ろしさを世界が知った天安門事件が起こりました。
 
 1991年ゴルバチョフのお陰で共産主義の脅威が去ったかと思っていたら、よりやっかいな、資本主義や新自由主義までも取りこんだ新共産主義、新共産党による今の中国の出現です。

 こうして日本も戦後復興過程における数々の労働争議、それに伴う社会混乱と不安の中、共産主義を脅威と捉えた、時の政府は反共、勝共へと進んで行きました。今、私自身のこととして考えてみてもやはり自由の無い(ように見える)共産党国家や新共産主義国家はご免です。今の中国に住みたいとはどうしても思えません。昔の支那には懐かしささえ覚えるのに・・・・、皆さまは如何お思いでしょうか。

 自民党も岸信介或いはその前からずっと反共、勝共で来ていたのだと思います。「統」についても特にここ数十年は皆さん、「統」が宗教法人という隠れ蓑の下でどのような意図を持って活動しているかなど深く考えもせず軽い気持ちで、選挙で票になるのだったら利用してみようと思われたのでしょう。それが案外増票につながり、しかも歴代の大物たちもからんでいるのだから安心、となって「利用するつもり」が「利用される状態」になってしまったのが今の状況なのだと思っています。日本の行く末を案じながらの暑い夏でした。
 校正をいただいた柴田邦佳様に感謝致します。 2022/09/13

 
 伏見医報 銷夏号に載せて頂いた、コロナに替わってやってきた「嬉しい夏」の写真です。
                 
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